山本周五郎『さぶ』


 【 ジェイ教育セミナー花北本校 増田 】


今日はジェイ文庫のうちの一冊である山本周五郎の『さぶ』を紹介します。



山本周五郎は20世紀の前半から半ばにかけて、主に時代小説を多く残した小説家です。


彼の小説の主人公は、例えば司馬遼太郎の歴史小説に出てくる坂本龍馬や織田信長といった歴史上の英雄ではなく、身分の低い武士や城下町で暮らす町人などの名もなき市井の人々です。人生は時に残酷なまでに容赦なく牙をむいて襲いかかってきますが、そんな中でも人間の尊厳や他人に対する優しさを失わず、どうにか前を向いて生きている庶民の物語であるところが共感を呼びます。周五郎の目線は常に弱者と同じ高さにあり、それは彼の生きざまから来ていると言えます。例えば、直木賞などの様々な文学賞に選ばれても、「作者にとって読者から与えられる以外の賞はない」と全てを辞退したそうです。


周五郎は長編以上に膨大な数の短編を残していますが、どの話においても筋書きを進めるためだけに登場する不自然で記号的な人物は決して出て来ず、誰もが血の通った人間として物語の中で生き生きと描かれています。それゆえ、多くの作品が映画化されており、日本が世界に誇る映画監督である黒澤明も愛読していたそうです。黒澤は周五郎の作品を原作として、『椿三十郎』『赤ひげ』など何本も映画化しています。


また、文体も非常に魅力的です。さっぱりとした清潔感があり、一本筋の通った凛とした文体のおかげで、日本人的な情感を豊かに描きつつも、センチメンタリズムに流されない抑制の効いた端正な文章になっています。ウェットな物語をドライに描写することで生まれるある種の厳しさが、独特の雰囲気を生み出しています。


さて、『さぶ』は山本周五郎の代表作である長編小説です。江戸時代に下町の店で働く栄二とさぶ。仕事が出来てハンサムな栄二と、どんくさくて見た目もパッとしないさぶという、ある意味対照的な二人の友情をめぐる物語です。ある日、栄二は身に覚えのない盗みの罪を着せられ、次第に人生を転落していきます。誰も信じられず自暴自棄になる栄二を、さぶは決して見捨てずに無条件の友情で支えていくことで、栄二は自らの手で人生を取り戻していくのです。物語が結末に辿り着いた後、栄二が主人公の物語に『さぶ』とタイトルがつけられた意味を考えてみるのもまた一興です。


栄二がどん底にいるときに、一人の年寄りから諭される言葉があります。「どんな人間だって独りで生きるもんじゃあない」。コロナ禍で人とのつながりが薄れやすい今だからこそ、この言葉がより強く意味を持つと思います。


ジェイの各校舎に文庫本が置いてありますので、ぜひ手に取ってみてください。