書評 サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』、鈴木主税訳、早川書房、2006年発行
【 ジェイ教育セミナー塾長 有働 】
中学生の皆さんは英語の学習の時に辞書を引くことは少ないのではないかと思いますが、高校になると予習や自分の勉強のために辞書を引くことになります。もっとも、最近は紙の辞書ではなく電子辞書や、それさえもう役目を終えたのかネット検索で済ます高校生も多いようですが。私は頭が古いせいか、本を読むのも辞書を引くのも、紙媒体のものでないとなんだか落ち着きません。それに、紙の辞書を引くというのは、匂いにびっくりすることもできるし(ご存じないでしょうが、外国で出版された辞書の中には、奇妙奇天烈なにおいがするものもあるのです)、調べている単語の前後に載っている別の単語に寄り道することもできたり、また独特の楽しみ方があるものです。
まだ学校に通っていたころ、先生に「英語の力をつけたいのならOEDを最初から最後まで読め」と言われたことがあります。Oxford English Dictionary、略してOEDというのは、19世紀に編纂が始まり1928年に完成した、世界で最も権威ある英語辞書とされています。全20巻、頁数にして2万ページをはるかに超える分量の辞書で、英語の単語の定義や語源、由来を全て英語で説明してあります。それを「調べる」のに使うのではなく、隅々まで「読め」と言われても、おいそれと試すことなどできず、うやむやにしてしまいました。後で先輩に聞くと、その先生はOEDを読めという無茶な指令をよく出す人だったそうですが、その先輩が研究室に所属してきた12年(!)の間、OEDを読破した学生が少なくとも3人はいたとのことです。
先日Amazonで、そのOEDの誕生秘話ともいうべき小説を見つけ、思わず購入してしまいました。
タイトルにある「博士」というのは、OEDの成立に尽力したジェイムズ・マレーを指します。マレーはスコットランドの平民階級に生まれ、高等教育は受けずに独学で言語学を学んだ大の秀才でした。後にOEDと呼ばれることになる辞書を、マレーは次のような方針で編纂しました。膨大な数の用例を収集したうえで、「単語の意味を定義するときには、その意味で初めて使われた用例と共に行う」。これがどれほど大変な作業を伴うか、ちょっと想像してみてください。いくら碩学のマレーといえども、生涯に目にすることのできる用例の数は、英語で書かれた文献の数の数百分の一、数千分の一にすぎなかったでしょう。マレーには良質の協力者が必要でした。その協力者の一人が、「狂人」と表現されたもう一人の主人公、アメリカ生まれのW・C・マイナーでした。
マイナーはある理由から人前に出ることができず、20年近くの間、マレーとの手紙のやり取りだけで、マレーの求める用例を提示したり、辞書編纂にかかわる様々な相談に乗ったりしていました。小説『博士と狂人』は、辞書が半ば完成したころに、マレーがマイナーを訪問するシーンから始まります――。
どうでしょう。ちょっと、興味を持っていただけたのなら、続きは実際の本で確認して頂きたく思います。ウィンチェスターのこの本は、もちろん「小説」ではありますが、実際にあったことだけを題材にしていて誇張や脚色などはごく少ないそうです。
この小説をもとにした映画もあって、私も一度見てみたのですが、内容は・・・・原作者がなぜクレームをつけないのかと不思議に思うくらいでした。映画から入るのはおすすめできません。