映画『ローマの休日』
【 ジェイ教育セミナー花北本校 増田 】
『ローマの休日』という映画をご存じでしょうか。タイトルやオードリー・ヘップバーンのイメージは知っていても、見たことのある人は少ないかもしれません。
監督はウィリアム・ワイラー、主演はオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペック。イタリアのローマを表敬訪問した王女が滞在先から抜け出して、正体を隠したまま市内で出会った新聞記者との1日の恋が描かれた物語です。表面上は軽いラブ・ストーリーといった趣ですが、制作の背景や物語の裏には当時の社会情勢がひそんでいて、そういった点を知るとより興味深く楽しむことができます。
オードリー・ヘップバーンはこの映画が初主演作でまだ無名の新人という存在。ところが実際に撮影してみると彼女のあまりの素晴らしさに、ポスターにおける表記も大スターであるグレゴリー・ペックと同列になったそうです。そしていきなりアカデミー主演女優賞を受賞します。その理由は本作を観れば一目瞭然で、白黒の画面の中でまばゆいほどの輝きを放っています。
最大の見どころはオードリーの表情でしょう。物語が始まった時点では世間知らずのお姫様に過ぎなかったアン王女は、まだ少女であるあどけない無垢な笑顔を見せます。その後、一夜の大冒険を経たあとに、淡い恋心を抑え込んで元の場所に返っていきます。現実の社会を知ったことで、一国の王女として生きていく覚悟をしたのです。クライマックスでは慈愛に満ちた菩薩のような表情に変わり、彼女が一人の人間として成長したことがはっきりと分かります。セリフで説明しなくても観客には伝わるのが映画の演出ですね。
さて、アン王女はそれまでヨーロッパの国々を順番に訪問していたわけですが、それは一体何のためだったのでしょう。この時点では第二次世界大戦が終わってからまだそれほど時間が経っていない時期です。人類史上最大の死傷者を生んでしまったこの戦争で、ヨーロッパはボロボロでした。アン王女は架空の国の未来のリーダーという設定ですが、実は戦後処理の一環で国の代表として回っていたのです。
アン王女が新聞記者のジョーと「祈りの壁」を訪れたことが、自分の使命を思い出すきっかけの一つとなります。「祈りの壁」とは、戦争中に家族の無事や平和への願いを込めた板が沢山かけられていた場所です。ここで戦争という現実の一端に触れ、自分の慰問には大きな意味があることに気付いたのです。
ちなみに『ワンダーウーマン』というスーパーヒーロー映画がありますが、主人公の王女ダイアナが「祈りの壁」を訪れるシーンがあり、それは『ローマの休日』へのオマージュです。というのも、狭い世界に生きてきた王女が社会に飛び出して、1人の男性と出会いって淡い恋とつらい別れを経験し、世の中を知ることで成長して自分の使命に目覚める、というストーリーが全く同じなんです。この2本を見比べてみるのも面白いですよ。
アン王女は戦後復興のための平和の使者だったわけですが、ここまで悲惨な戦争を二度と起こさないように一つの国のような集まりになることを目指す、つまりヨーロッパ連合の創設が大きな目的だったんですね。何千年も争ってきたヨーロッパでそんな組織を作ることは夢物語だと思われていましたが、もちろん現在は実現しています。EEC・ECSC・ユーラトムがECになり、そこからEUになって今年で30年です。
この映画の素晴らしい脚本を書いたのはダルトン・トランボという人ですが、公開時には彼の名前は伏せられています。その背景にあるのは「赤狩り」です。アメリカでは第二次世界大戦後に赤狩りと呼ばれる共産主義の排除運動が起こります。「赤」とは「共産主義」のことで、ソビエト連邦や中国の国旗が赤いことからこう言われました。冷戦下における対立から起こった運動ということです。共産主義者やソ連のスパイだと疑われた者を排除していくという恐ろしい状況ですが、主義・主張を制限し自由を奪う共産主義に反する運動が、結局同じように国民の自由を奪うという何とも皮肉な状況になったわけです。
映画産業界で働く人物のうちの何人かが、ハリウッドの労働組合への共産主義の影響を調査していた非米活動委員会によって呼び出されます。その中にダルトン・トランボも含まれていました。聴聞会で共産党員かどうかを問われ、アメリカ合衆国憲法修正一条(議会は言論の自由を制限する法律を作ってはいけないという原則)を理由に彼は証言を拒みました。その結果、禁固刑の実刑判決を処されることになったのです。
映画関係者の中には赤狩りに協力した人も多くいました。また、自分にかけられた嫌疑を晴らすために司法取引をし、共産主義思想の疑いのある映画関係者の名前を何人も密告した人までいます。しかし、トランボは決して自分の信念を曲げませんでした。
釈放されたトランボは偽名で脚本家としての活動を続けます。その中の一つの作品が『ローマの休日』だったのです。その後も多くの作品を世に送り続け、生きているうちに彼は名誉を回復します。『ローマの休日』に与えられたアカデミー原案賞も、のちに正式にダルトン・トランボの名義に変更されました。
「映画は時代を映す鏡」だと言われます。純粋に一本の映画として楽しむことが第一ですが、その背景を知ることで面白さは何倍にもなると私は思っています。時代を乗り越える映画には、必ず理由があるものです。これは文学や音楽、絵画などあらゆる芸術作品に共通して言えることです。古い作品だからと敬遠するのはもったいないですよ。
NHK BSプレミアムで6月10日(金)に放送されるので、この機会に是非ご覧ください。