「ほんたうのさいはひ」


  【 ジェイ教育セミナー龍野校 加古 】


みなさんは宮沢賢治という人を知っていますか。日本の文学史上子どもから大人まで、世代を問わず、彼ほど知られている作家はいないのではないでしょうか。学校の教科書だけでなく、絵本や映画、アニメにもなり、だれもが幼いころから親しんできている作家の一人です。「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの童話、また彼が心象スケッチと言っている詩「春と修羅」などいくつかの作品は必ず目にしているでしょう。

宮沢賢治の人生には「死」が色濃く反映しています。明治29年(1896年)8月27日岩手県花巻市の裕福な商家の長男として生まれ、あと取りとして大切に育てられます。生涯金銭のことは心配することなく自分のしたいことをし続けることができました。しかし、彼自身はその恵まれた環境に対する悩みから、父親に対する反抗が現れてきます。6歳の頃、伝染病にかかり何ヶ月も入院生活を送ります。また18歳の頃、鼻の手術を受けたとき、伝染病にかかった疑いで一ヶ月余りの入院となります。もともと信心深かった家族の影響もあり、「死」に直面するという経験から仏教への関心が深まっていきます。また、一番の理解者であった最愛の妹が24歳という若さで亡くなるという深い悲しみを経験します。妹の死は「春と修羅」の「永訣の朝」などに歌われています。彼の作品には愛する者を永遠に失う苦しみや悲しみ、愛する人にもう一度会いたいという、願いが描かれています。「みんなの幸い」を目指し、自分の理想とする「ほんたうのさいはひ(本当の幸い)」とは何かを問いかけていると言えるのではないでしょうか。

彼は盛岡中学校から盛岡高等農林学校を卒業後、花巻農学校の教師となりますが、数年で退職します。「本当の百姓」になるという目標に向かって、彼の理想へ進んでいきます。畑を耕したり、近所の農民たちに農業指導や肥料相談をする毎日を送ります。現在の花巻高等学校の敷地内に移築されている「羅須地人協会」が活動拠点となっていました。

彼が理想を求めた活動は、朝から晩まで働きづめの農村における実情とは相容れず、現実が突きつけられ、活動は休止されます。

賢治の人生にはまた「災害」も大きくかかわっています。彼が生まれた年には明治三陸地震が発生し、津波で多くの人が亡くなりました。賢治が亡くなった1933年にも昭和三陸地震が発生し、多数の被害を受けました。また、1923年9月1日は関東大震災が起こり、被災者たちが東北のほうにも避難してきたのを目の当たりにしています。「春と修羅」には震災が大きな影を落としている作品もあり、自らの生活を反省し、あるべき理想の世界を追い求める気持ちが強くなったと考えられます。


今年は関東震災後100年の年です。1923年大正12年のことでした。宮沢賢治は10年後の1933年9月21日に37歳で亡くなりました。昭和7年のことです。今年は賢治没後90年としてメディアに取り上げられています。彼の生きていた頃の時代状況を知ることで、賢治の作品をより深く読み解くことが出来るのではないでしょうか。ぜひ久しぶりに賢治の作品を手に取り、明治・大正・昭和の時代背景と共に彼の伝えたかった思いを読み取ってみてください。