文豪ストレイドッグ
【 ジェイ教育セミナー手柄駅東校 久米田 】
ある日の朝方の事である。ふと思い立ち、散歩に出た。
広い秋空の下には、私のほかに誰もいない。
歩いていると、向こうから犬が駆けてきた。やむにやまれぬ様子で小気味いい音を立てて走っている。飼い主を探して周囲を見渡すも、無人であった。これは珍しいことである。幼少の頃は、野良犬などそこら中にいた。授業中の教室に飛び込んで騒ぎを起こす犬すら、年に数匹はいた。しかし、今は時代が違う。ここは21世紀の近代都市HIMEJIである。おそらく、飼い犬が逃げ出したものであろう。ものすごい勢いで犬が私の脇を駆け抜けたとき、首輪がないかと目を凝らしたが判然としなかった。
飛びかかられずに済んでよかった、と安堵した瞬間、犬は狂ったように私の周りを走りだした。
どういうつもりなのか。私を困惑させて楽しんでいるのか。
しまいに犬は私の前に座り込んだ。つぶらな瞳で私を見上げ、何かを待っている。
エサをねだられているのか。かわいい犬を見れば喜んでエサを差し出すようなそんな軽い男に見えるというのか。
いや、ちがう。この犬は撫でてほしいのだ。そういう顔をしている。
気持ちを察して、頭に手をのばすと、犬は顔をしかめて逃げ出した。
ちがった。撫でてほしいのではなかった。
犬は、数メートル先でこちらを伺いながら、他家の植栽に用を足している。近寄ると走り出し、距離を置いてまたこちらを振り返る。波打ち際で彼女と追いかけっこをしているような心持ちになりかけた頃、嫌なことに気づいた。
犬はこのまま家までついてくるのではなかろうか。所かまわず用を足すようなやつに家を知られるのはまずい。
LINEで妻に報告すると「絶対に連れて帰ってこないでよ」と返信が来た。これは撒くしかない、と腹をくくる。
とにかく、犬に「コイツには近づかないでおこう」と思わせればよい。
そう考えて、大声をあげた。少し上擦ってしまい薩摩示現流の猿叫のようになった。
犬はぎょっとしたように見えた。すかさず方向転換して猛スピードで逃げる。散歩をしていたらしいご婦人が口を開けているのがチラリと見えたが気にしない。犬は猛然と追いかけてきた。
5秒で鬼ごっこは終わった。犬は私が遊んでやっていると思ったのか、尻尾まで振って付いてくる。
そもそも本気を出した犬から丸腰で逃げられるわけがない。しかし、このままでは妻に叱られる。
途方に暮れた私のそばを登校中の中学生が通りかかり、犬を見て「わあ」と声を上げた。
犬の尻尾がちぎれんばかりに振られた。
犬は彼女の周りをくるくる回りだし、そのまま彼女とともに遠ざかっていった。
空には、ただ、玲瓏たる紺碧があるばかりである。
犬の行方は、誰も知らない。