インディアン・タイム


 【 ジェイ教育セミナー新飾磨校 富永 】


中学2年生の英語の教科書に『History of Clocks』(Let’s Read1)という部分があります。その中の、“Egyptians started to measure time without it.”“They used different ideas and technologies to measure it.”という文を読んだときにふっと思い出したことがあります。それは、平原インディアンのアラパホ族の人が、1960年代のインタビューに答えたもので、「白人はみな判で押したように時間の事ばかり気にしている。(省略)時計というものの顔についている針の意味するところのものが我々にはおよそ理解できなかったし、白人が食事をしたり、教会に行く前に、それをいちいちなぜのぞきこむのかもまったく理解できなかった。(省略)時間、分、そして秒。それらはなんというか、時の移ろいを小さく区切ったものなのだな。我々はそんなふうに時の移ろいを考えたことなぞついぞなかった。太陽が昇る時、太陽が空高くある時、太陽が沈む時、我々が昔ながらのアラパホの道の上で生きている時には、一日というのはその三つに分かれているだけでじゅうぶんだった。(省略)白人たちは、アラパホやシャイアンほど懸命に相手の生き方を理解しようとはせず、ただ我々はみな怠け者だと決めつけた。我々が怠け者のように彼らの目に見えたのは、時間というものに対する姿勢がまるで異なっていたからなのだ。我々は時の移ろいを楽しむが、連中は時をモノサシで計ることに明け暮れる。」というものです。

これは文明が発達したと思っている我々現代人とネイティブの人達の時というものに対する心の姿勢が違っていることを理解しなくてはなりません。ネイティブの人達はどこにいようと星の動きや、月や太陽の動きを、時計で計ることなく、サイクルとして認識していたということです。そういうふうに時の移ろいを楽しみながら数万年生きてきたネイティブの人達が、機械式時計を最初に見た時、それを何と呼んだか知っていますか?いまだにアナベキの人達はその時につけられた名前で時計のことを「パペーゾクワズィク」と呼ぶそうです。それは「大きな音を立てるわりには何の役にも立たないもの」という意味だそうですよ。時計の動くスピードを遅くするだけでは、流行りのスローライフもSDGsも実現しないということですね。

「そんな、この間までパンツ一丁で走り回っていたインディアンのじいさんの言うことなんか、、、」と思う方にはこちらの本をお勧めしましょう。半年ほど前に小学生の生徒さんに借りて読んだ『モモ』という本があります。「時は金なり」という言葉に始まり、今やインターネットの発達で時間と距離がゼロになってしまった現代社会において、1分1秒を惜しんで忙しく生きる現代人に対する痛烈な批判が、ファンタジー物語になっていて面白いなぁと思いながら読んだのですが、、、後で調べると、ドイツのミヒャエル・エンデによる児童文学作品で、出版されたのが1973年だと知って驚きました。現在の悪夢的な状況を笑えるほど見事に予言しています。白人の中にも・・・というのは私の勝手な偏見なのでこのあたりでやめておきましょう。