日本にあこがれる外国人


 【 ジェイ教育セミナー西飾磨校 加古 】


まず下の絵を見てください。

「知ってる」「見たことがある」「歴史の教科書に出てきたよ」と思う人がほとんどではないでしょうか。



ではこれらの絵を描いた人は誰でしょうか。

ジョルジュ・ビゴーというフランス人です。


19世紀の後半、日本の開国後、多くの西洋文化が日本に入ってきました。と同時にヨーロッパ各地で開かれた万国博覧会には、日本の美術品がたくさん出品され、いわゆるジャポニズムが吹き荒れていました。

絵を勉強していたビゴーは1867年のパリ万博で、日本の浮世絵に興味を抱き、版画(銅版画)の技術を学び挿絵(さしえ)画家として活躍していました。日本への思いが強く、つてを頼って日本に来たのは、1882年(明治15年)21歳の時です。

日本では絵画の講師として雇(やと)われ、絵を教えました。その合間に日本国内をあちこち訪れ、日本の庶民の生活をスケッチしたものを画集として出版しました。彼の「日本的なもの」への熱い思いが、風景画や風俗画には表れています。絵のサインには「美好・美郷(ビゴー)」と描かれています。彼の日本に対する強いあこがれが表れていると思いませんか。


その後中江兆民(なかえちょうみん)(この人は知っていますよね。歴史の教科書を調べてみてください)の塾で、フランス語を教えます。そのころの日本は自由民権運動の真っ盛りでした。「トバエ」という風刺漫画(ふうしまんが)雑誌を創刊し、日本の政治を題材とした風刺漫画を多く発表しました。

それらが初めに紹介した「魚釣り遊び(清、日本、ロシアの関係を風刺したもの)」を代表とする一連の風刺漫画です。これらの風刺漫画では日本人をつり目で出っ歯と強調して描かれ、日本のイメージが固定されたものになってしまいました。(そのころの日本人の栄養状態が影響しているそうです)

自由民権運動が下火になると、災害などの実際起こったことを取材して記録する、報道画が普及し、彼は日清戦争にも従軍して報道画を描いています。(写真の技術がまだ未熟だったからです)

その後写真の発達で報道画の仕事が減ったことだけでなく、条約改正の影響で日本に住んでいた外国人の多くが帰国するなど状況が変わり、1899年17年間住んだ日本を離れフランスに帰国します。


下の写真は来日してすぐの22歳の誕生日に横浜で撮ったものです。彼の日本に対するあこがれが伝わってきますね。フランスに帰国後、自宅に日本風の庭園を作ったり、日本風の着物を着たりしていたので、近所の人からは「日本人」と呼ばれていたそうです。

フランスで浮世絵と出会い、日本にまでやって来たビゴー。

その後も日本を理想的なものとして描き続けます。

ビゴーは、日本を理想郷ととらえて日本に来ました。しかし、すでに近代化にまい進し、以前とは大きく変化していた日本は、彼にとって理想郷ではなくなっていたのではないでしょうか。そのため、実際に写生したものをそのままではなく、彼にとっての理想である以前の日本の様子に描き変えているものもあります。

しかし彼は、日本が大好きなことは変わらず、自分のことを「フランスの江戸っ子」と呼んでいました。


現在も多くの外国人が日本にやってきます。ビゴーのように日本に興味を持ち、好きになり、その上、永住し、日本人に帰化(きか)する人もいます。

果たして日本人である私たちは日本の良さを本当に理解しているのでしょうか。改めて日本の良さを見つめ直してみるのはどうでしょう。今までとは違った日本が見えてくるかもしれませんね。